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第27話 王都への道②

Author: なつめ
last update publish date: 2026-09-06 13:42:15

 違うはずなのに、馬車が動き出した瞬間、身体の奥に古い緊張がひとつ戻ってくるのを止められなかった。

 窓の外では、城壁がゆっくりと遠ざかる。見慣れた回廊の影、訓練場の石、保温室の小さな窓、乾燥庫の外壁。ここ数か月で、セレフィアはこの城の中に少しずつ自分の居場所を作ってきた。薬草茶の湯気。毛布の色糸。衝立の位置。市場で見た暮らし。温室で言った「逃げるのをやめたい」という言葉。その全部を置いて、いままた王都へ向かう。

 胸のどこかが、きゅうと縮む。

「寒いか」

 向かいに座るゼルヴァンが、窓の外から視線を戻して訊いた。

「……少しだけ」

 正直にそう答える。実際、車内は暖かい。座席の下へ湯たんぽも入れられているし、ネリサが用意した毛織のひざ掛けも膝へかかっている。だから寒いのは体というより、もっと別の場所なのだろう。

 ゼルヴァンはそれ以上問わなかった。ただ、脇の小卓へ置かれていた茶の壺をひとつ手に取り、セレフィアのほうへ寄せる。喉をやわらげるための薄い薬草茶だ。香りは強くない。けれど湯気が立つだけで、車内の空気がほんの少し柔らかくなる。

「飲んでおけ」

 低い声。

「最初のうちは道
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  • 姉上の代わりに嫁いだ私を、辺境伯は最初から見抜いていた   第27話 王都への道④

     彼の手は、熱いわけではなかった。けれど冷えていない。乾いたあたたかさがある。大きく、骨ばっていて、しっかりしている。その手が、黙ってセレフィアの指先を包む。強く握り込むのではない。ただ、冷えた手がそこから逃げぬよう、両側から支えるみたいに包む。 その瞬間、セレフィアの胸の奥で何かがひどくやわらかく崩れた。 恥ずかしい、と思うより先に、あたたかい、と思った。 そして次の瞬間には、その近さと静けさと、あまりに当然のような手つきとで、心臓が急に早くなる。息が浅くなりそうになるのを、どうにか堪える。「まだ冷たいな」  ゼルヴァンが、ごく低く言う。 まるで、それがいま一番大事な確認であるみたいに。 王都の舞踏会でも、姉でも、実家でもなく。まず手の冷たさを確かめる。それが彼なのだ、とセレフィアはあらためて思う。大きなことの前に、いま目の前の人の冷えを見ている。「すみません」  とっさにそう言ってしまう。 ゼルヴァンの眉がわずかに寄る。「謝るな」 短い。だがいつもより少しだけ硬い。「……はい」 セレフィアは素直に頷いた。彼の手の中で、自分の指先が少しずつ感覚を取り戻していくのがわかる。それと同時に、胸の奥もじわじわ熱を持つ。こんなふうに手を包まれることが、どれほど深く自分を揺らすのかを、ゼルヴァンはたぶん知らない。 彼はしばらく何も言わず、そのまま手を包んでいた。火の落ちた暖炉の気配、外廊下の向こうで鳴る風のない静けさ、夜更けの宿の眠った空気。その中で、彼の手の温度だけが確かだった。 やがて、低い声が落ちる。「君を一人では立たせない」 その言葉は、どんな愛の言葉よりも深く、まっすぐにセレフィアの胸へ入った。 愛しているでも、守るでもない。君を一人では立たせない。 それは甘い囁きではない。けれどいまの彼女にとって、それ以上に欲しかった言葉だった。王都の舞踏会の中央に立つ時も、実家と姉の前へ出る時も、自分の人生を自分で選ぶために一歩を踏み出す時も、ひとりでは立たせない。 その約束は、誓いのようでいて、彼らしい実務の言葉でもある。隣に立つ。支える。必要な時には手を打つ。そういう人が言うから、余計な飾りがなく、信じられる。 セレフィアは喉の奥が熱くなり、目を伏せた。泣きそうなのではない。けれど、その一言を受け取る場所が胸のいちばん深いところ

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     気づけば何度も寝返りを打っていた。シーツの擦れる音が、小さな部屋ではやけに大きく響く。暖炉の火は弱められている。窓の外には風の音はない。だからこそ、自分の呼吸の浅さだけがひどくはっきりわかる。 やがて、扉の向こうでほんのわずかな気配がした。 ノックはない。だが廊下側の小さな居間に、まだ誰かが起きているのだとわかる。ゼルヴァンだろう。道中の夜は、いつもよりさらに浅く眠る人なのだと、夕方バルタザルが小さく言っていた。土地勘のない場所ではなおさらだと。 セレフィアは、寝台の中でそっと息を吐いた。 呼ぶべきだろうか。 ネリサでも、ミレナでもなく、今ここにいるのはゼルヴァンだけだ。もし眠れないのなら、消える前に誰かに言え、と彼は温室で言った。俺でもいい、と。 その言葉を思い出すたび、胸の奥があたたかくも、痛くもなる。だが、夜更けに眠れないからといって扉を開けるのは、まだためらわれた。彼は自分の部屋ではなく、道中の警戒のため起きているのだ。そこへさらに自分の不安まで持ち込むのは、あまりに幼い気がした。 そうして迷っているうちに、寝台の中の手が、ひどく冷たくなっていることに気づく。 部屋は寒くない。毛布も足りている。なのに、胸の中が落ち着かぬ時、手だけが先に冷えるのだと、セレフィアは前にも何度か経験していた。温室へ逃げ込んだ時もそうだった。客間で王都からの手紙を聞いた時も。心の冷えが、末端へ先に出るのだろうか。 とうとう眠りを諦めて、セレフィアはそっと起き上がった。 肩へショールを引き寄せ、足音を立てぬようにして寝室の扉へ向かう。そこを開ければ、小さな居間があり、その向こうに外廊下へ通じる扉がある。その居間に、人の気配がある。 扉を細く開くと、暖炉の火の落ちた橙色の明かりが、薄暗い居間を照らしていた。 ゼルヴァンは窓際の椅子に座っていた。灯りは最小限。机の上には読みかけの書類が数枚と、湯の冷めかけたカップ。だが彼自身は書類を見ていなかったらしい。扉の小さな音だけで顔を上げ、そのままセレフィアを見る。「どうした」 低く短い声。 セレフィアはその一言だけで、自分の喉が少しつまるのを感じた。彼はもう、自分が眠れていないことをほぼ察している。だから説明も責めもしない。まずどうしたとだけ聞く。「……眠れなくて」  正直にそう言う。 ゼルヴァンはすぐに

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     王都へ向かう馬車は、まだ夜の冷えを残した朝に城門を出た。 北辺の空は白かった。雪が降る白ではない。春の手前で、雲も光もまだ色を決めきれない時の白だ。高いところに薄くひろがった雲の向こうに陽はあるのに、その光は地上へ届く前にどこかで拡散し、山の輪郭も、城壁の石の色も、やわらかく曖昧にしている。だが空気そのものは鋭い。息を吸えば肺の内側へ冷えが入る。馬の吐く息はまだ濃く白く、轍の残る道の端には、冬が置き忘れていった灰色の雪が薄くこびりついていた。 城門の前には、必要な人数だけが並んでいた。 バルタザル、ネリサ、ミレナ、それから数人の騎士と従者。見送りは簡素だった。王都へ向かうといっても、これは華やかな旅立ちではない。春の舞踏会への出席。王命。王都の実家と姉が必ず何かを仕掛けてくるとわかっている行き道。誰も大げさな言葉は言わない。ただ手落ちのないよう整えられた荷と、時間と、動線だけがそこにある。「王都での滞在先には、すでに先触れが入っております」  バルタザルは馬車の扉のそばでそう告げた。 「旧屋敷の者には、伯爵家からの直接の使いをすべて表で止めるよう申しつけてあります」「わかった」  ゼルヴァンは短く答える。「舞踏会前に一度、王都の動きを洗い直します」  バルタザルはさらに低く続ける。 「お姉君がどう動いているかも」 その一言に、セレフィアの胸の内側がわずかに冷たくなる。オルフィーヌ。恋人に捨てられ、それでも高慢さを少しも失わず、辺境伯夫人の座を取り戻せると本気で思っている姉。王都の空気の中で、あの姉がどんな顔をして立っているのかを想像するだけで、まだ胸の奥へ古い痛みが戻る。「奥方様」 ネリサが一歩近づいた。 人前だ。だから呼び名はそうなる。けれど目は、きちんとセレフィアを見ている。「寒さはまだ残ります。道中で眠れぬようでしたら、すぐお申しつけを」  彼女は言う。 「馬車用のお茶は、手の届くところへ入れてございます」「ありがとう」「それから」  ネリサはごくわずかに声を落とした。 「王都の空気は、北辺と違う冷え方をいたします。お気をつけて」 その言い方が、あまりにも的確だった。 王都の冷えは石畳や風だけではない。視線と噂と、外聞が人へまとわりつく種類の冷えだ。ネリサはそれをよくわかっている。だからこそ、あえて“空気”と

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     ゼルヴァンは、しばらく黙ってから問うた。「それで」 低い声。「お前はどうしたい」 最後の問い。決めるのは、こちら。 セレフィアは、自分の両手を見た。もう昔のように、ただ強く握り潰すだけではない。怖い時、少しずつ開くことも覚えた。温室で逃げるのをやめたいと言った時も、雪夜の小屋で彼を恐れていないと知った時も、名前で呼ばれて胸が揺れた時も、同じ手だった。 この手で、自分の人生を選ばなければならない。 ならば、答えはもう決まっている。「……行きます」 はっきりと、そう言った。 言葉は意外なほど静かだった。叫ぶような決意でも、震える告白でもない。ただ、胸のいちばん深いところに落ちていた石を、そのまま掬い上げて机の上へ置くみたいに、まっすぐな声だった。 ゼルヴァンの目が、わずかに細くなる。 ネリサが息をつく音が、すぐ近くでかすかに聞こえた。安堵なのか、覚悟を見た時の静かな受け止めなのかはわからない。バルタザルは相変わらず姿勢を崩さない。けれどその目元に、ほんの少しだけあたたかいものが差した気がした。「王都へ行きます」  セレフィアはもう一度言う。 「怖いです。でも……」  言葉を切り、ゼルヴァンを見る。 「今度こそ、自分の人生を他人に決めさせたくありません」 その一言に、ゼルヴァンはゆっくり頷いた。「わかった」 たったそれだけだ。けれどそこには、軽さがなかった。覚悟を受け取る人の返事だった。「なら、行く」  彼は淡々と続ける。 「ただし、王都で何が起きても、お前が一人で受ける必要はない」 セレフィアの胸が、静かに鳴る。「舞踏会は俺とお前で出る」  彼は言った。 「お前が決めて出るなら、俺もそれに合わせて動く」 それは甘い言葉ではない。けれどそれ以上の支えだった。隣に立つ、という意味を、彼はいつもこういうふうに実務の言葉で言う。 バルタザルがすぐに動く。「では、王都行きの準備を二通りで整え直しましょう」  彼は机の上へ新しい紙を引き寄せる。 「通常の舞踏会支度と、伯爵家からの接触を想定した裏動線を両方」  視線をネリサへ向ける。 「奥方様のお衣装は、王都で見劣りせず、なおかつ辺境伯夫人としての格を損なわぬものを。過度に華やかすぎる必要はありません」 「承知いたしました」  ネリサは即座に応じる。 「伯

  • 姉上の代わりに嫁いだ私を、辺境伯は最初から見抜いていた   第26話 王都への招待状③

     オルフィーヌの顔が脳裏に浮かぶ。あの姉はきっと、失意に沈んだ顔などしない。捨てられたのだとしても、それを自分の被害と美しさへ塗り替え、辺境伯夫人の座を取り戻せると本気で信じているだろう。その高慢さを、母はきっと都合よく使う。父はそれを外聞の筋へ整える。 怖い、と思う。 王都へ戻ること自体が怖い。あの家の空気へ、あの姉の視線へ、あの磨かれた床の上へもう一度立つことが。しかも今回は、ただの伯爵令嬢ではない。辺境伯夫人として。しかも本物か偽物かを見定めようとする目が、最初からそこかしこにある夜会へ。「無理に行く必要はない」 ゼルヴァンが言う。 「逃げることもできる」 その一言は、やさしい。だが甘やかしではない。できる、とだけ言う。そのうえで、どうするかをこちらへ返す。 セレフィアは視線を落とした。膝の上へ重ねた手が、少しだけ熱い。客間でも温室でもなく、執務室のこの緊張の中で、自分の心がどちらへ傾くかをたしかめなければならない。 逃げることは、できる。 王命からの傷を最小限にして、王都の舞踏会を避ける道は、ゼルヴァンがきっと本当に作ってくれる。彼はそういう人だ。言葉より先に手を打ち、足りぬ時は道をあける人。だから、その逃げ道は甘い嘘ではなく、本当に現実の形を持つだろう。 けれど、その道へ身を滑らせた時、自分は何から逃げるのだろう。 王都の姉からか。実家からか。外聞からか。 それとも、自分の人生を自分で取り返す機会そのものからか。 その考えが胸へ浮かんだ瞬間、セレフィアの中で何かが、ひどく静かに定まる気配がした。 王都へ戻るのは怖い。 けれどいま、逃げ道を使ってやり過ごせば、たぶんこの先もずっと同じことを繰り返す。父母が何かを決め、姉が奪い、世間が噂し、そのたび自分は安全なところへ引っ込んで待つ。そうして選ばないまま、気づけばまた誰かの都合で次の場所へ押しやられる。 それだけは、もう嫌だった。 温室でゼルヴァンに言ったではないか。逃げるのをやめたい、と。 ならば、この王命はたぶん、その言葉の重さを試すために来たのだ。 セレフィアはゆっくり息を吸った。暖炉の火の匂いがする。北辺の石壁の冷たさと、紙の乾いた匂いもする。王都ではない。この部屋には、この土地の匂いがある。そしてその中で、自分は春までのあいだ、自分の意志を持つことを少しずつ教わ

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